”まるふ”への想い

”まるふ”への想い

歴代社長が継いできた萩原賦一(ふいち)という名前とその名前に由来する「二つと無い」という意味。

127年を経ても萩原のチャレンジ精神と唯一無二の存在でありたいと願う姿は変わりません。

岡山県とい草

岡山県とい草の歴史は深く、西暦190年代第14代仲哀天皇が仮泊のために現在の岡山県倉敷市に立ち寄られました。

その際に渓間の野草をつかって「御座」を奉ったところ、その美しさにこの野草でむしろを織るようにと勅諚があり、

それがい草のむしろと言われています。

また、このことから茣蓙(ござ)の語源も御座から来ているといわれています。

その後、室町時代より書院造に畳が使用されたことにより普及していきました。

また、安土桃山時代より岡山県倉敷市は干拓により陸地が増えていきましたが、塩分が多く米作りには適さなかったため、

塩分に強いい草や綿花が植えられました。

こうして昭和の高度成長期まで倉敷が、い草の一大産地となっていきました。

初代 萩原賦一

1892年(明治25年)8月、「萩原賦一商店」創業。

明治に入り輸出が盛んとなり、い草製品も欧米向けに輸出されていきました。

その中で、先見の明に優れていた初代萩原賦一は1892年に自身の「ふいち」という名前から「まるふ」という屋号を掲げて、

アメリカ輸出向けの花ござ製造販売として創業しました。

その後、1902年には日本からアメリカに向けての輸出全品目のうち倉敷が特産であった花ござが3位になりました。

しかしながら、1914年より始まった第一次世界大戦により輸出ができなくなり、国内向け販売に転換しました。

二代目 萩原賦一

将来の二代目萩原賦一の誕生

二代目萩原賦一は浅原家の三男として生を受け幸雄と命名されました。

初代萩原賦一の甥にあたる幸雄は尋常高等小学校を卒業すると親元を離れ、

萩原家に丁稚奉公として支えながら倉敷実業高校に通いました。

幸雄は初代賦一の下で厳しく躾けられ商売について一から学ぶことで萩原家のDNAを受け継いだのです。

「有限会社萩原商店」の設立

1941年に勃発した太平洋戦争に幸雄は出征しインドネシアのスマトラ島にて従軍しました。

その後、終戦を迎え1946年に復員しますが、幸雄は生家ではなく奉公先の萩原家に帰宅し、

1948年初代萩原賦一の死去に伴い2代目萩原賦一を襲名し、有限会社萩原商店を設立しました。

新規事業へのチャレンジ

2代目に就任した萩原賦一は初代の長女である妻壽満子とともに戦前からの顧客との取引を再開し

全国で販売活動を行うとともに、改めて海外輸出も推し進めました。

また、1962年に他社との差別化、コストの優位性を目的として花ござ用経糸をポリエチレンで作るため水島工場を建設創業し、

後の萩原工業株式会社の礎を築きました。

事業拡大へ

その後、2代目萩原賦一は事業拡大を推し進め、い草製品工場、販売会社、樹脂成型製造会社など多数の会社、

事業を設立投資していきました。

ピークには5社、1協同組合、16事業所となり、萩原グループの連結売上高は230億円にものぼりました。

2代目は自らの足で世界中を歩き、国内はもとより全世界での市場開拓、販路拡大を推し進め、事業はどんどん拡大していきました。

順調に事業は拡大し、何社もの社長を兼任していた2代目萩原賦一は誰よりも先頭に立ち、

社業を全うする代償に病気を患い1970年頃からは入退院を繰り返しながらの采配となり始めました。

後の3代目萩原賦一である長男和孝は父のそのような状況により大学入学とともに東京営業所にて

社業の手伝いを行いまるふのDNAを受け継いでいきました。

三代目 萩原賦一

1977年(昭和52年)、二代目萩原賦一の逝去に伴い、長男和孝が若干25歳で社長に就任、三代目萩原賦一を襲名しました。

しかしながら、二代目萩原賦一の死去により起きた信用不安により萩原株式会社は経営危機に晒されました。

三代目は毎日のように銀行を訪れ、再建計画を立案、事業の効率化と安定化を進めていきました。

また、高度成長期により岡山県でも水島工業地帯が発展したことにより公害が発生。

雇用も水島へ流れたことで倉敷のい草産業は衰退がはじまり、このままではコアであるい草事業の継続が

困難になると思い1972年に中国へ進出していきました。

事業継続の為の経営効率を行う一方で中国に積極投資を行い、1979年中国蘇州にて

江蘇藺芸草制品有限公司を設立、中国製い草製品の製造の礎を築き上げました。

 

1983年に当時としては珍しい本社展示場を設立。

取引先に出向くのではなく来てもらう、また来てもらえるだけの魅力を作るよう

まるふの精神を強めていきました。

事業の多角化

時期を同じくして、1970年代後半、中国でのい草事業を挑戦する一方で家具の取り扱いを開始しました。

それはいままで敷物だけの平面だったものから、空間へと大きな転換となりました。

当時は台湾でもい草工場を設立しておりましたが、近隣には多数の籐家具工場が存在しており、

可能性を感じた三代目は日本へ籐家具を輸入。当時は販売網も無かったため、

地域の布団販売店や当時新業態であったホームセンターへと持ち込み取り扱いを増やしていきました。

また、ヨーロッパ諸国、中近東への輸出も拡大している中で

販売と同時に輸入業として唐木家具、ヨーロッパ家具の取り扱いを開始しました。

 

1985年、プラザ合意による急激な円高が起こり、輸出事業は大きな転機を必要とされました。

しかし三代目はこのピンチをチャンスに変えようと、当時輸出によって得ていた外貨を円に両替するのではなく、

そのまま商品の仕入れに使用して輸入をさらに拡大させようと考えたのでした。

その後、バブル景気も重なり家具事業は大きく成長していきました。

分社化

こうして従来からのい草事業、新しく始めた籐事業、輸出およびヨーロッパからの輸入事業を1991年に分社化。

萩原株式会社、ハギハラスリーアイ株式会社、萩原貿易株式会社が誕生しました。

また同年には1972年から始めた中国事業の一環として業界初となるい草製品の検品を目的とした

検品配送センターを中国上海に設立。中国でのい草事業におけるポジショニングを確立しました。

その後、検品配送センターは1995年に江蘇省蘇州に移り、2003年に法人化。

現地企業との合弁で蘇州萩原弘業藺草有限公司が誕生しました。

い草事業において、中国のパイオニアとして現地工業に肥培管理から最終検品までを一から指導し続ける一方、

そこで得た工場運営のノウハウを他事業に活かしていき取扱商品はどんどん増えていきました。

さらなるステージへ

分社しそれぞれ独立独歩に事業を行っていきましたが、今後のさらなる発展と相乗効果を計画として

2010年に萩原株式会社・ハギハラスリーアイ株式会社・萩原貿易株式会社の3社を合併させ、

新生萩原株式会社が誕生しました。

四代目 萩原秀泰

2016年、市場の多様化していく中で、次の時代へと繋げていくために

三代目萩原賦一は自ら引退の道を選びました。

その後2018年11月に四代目として萩原秀泰が代表取締役社長に就任。

取扱商品が多角化していた中で、販売網も多角化する必要があると感じ、小売り事業に着手。

はぎもの舎一号店を立ち上げました。

また、オムニチャネル化した市場に対応すべく、部署をまたがり、製造から販売までのSPAを強化。

原料からの製造メーカー機能、商品企画機能、輸送管理機能、工場運営管理機能、

品質管理機能、物流機能、卸売り機能、小売り機能、SNSなどの

販促機能を兼ね備え、それらを萩原にしかできない強みへと変えていき、

歴代のまるふがつないできた思いを後世へとつないでいきます。

「まるふ」

抜きん出るための大きなチャレンジ精神と、チャレンジを支える地道な努力を続ける精神。

萩原株式会社の中で唯一変わらない「まるふ」の考え方が今までもこれからも進化を常に支えています。